ルルブに載ってる
アラビア語解説の誤訳誤植その他あれこれの話。
クトゥルフ神話TRPG日本語版ルールブック六版のp.129~『超自然の世界』の項で、
クトゥルフ神話世界観の設定が色々と解説されています。この神格の名前はもともとこういう意味で幾多の言語を経てこういう風に変化したんじゃないかとか、云々。
が、この解説、
アラビア語を扱った部分において多少の
誤訳・誤植があります。さらに明らかな誤りではないですが、この書き方だとちょっと誤解を招くのでは……と思う部分、英語で読むことが想定されているものをそのまま載せたために日本語版読者には多分本来の意図と違ったものが伝わっているであろう部分(主に転写
*1の問題)が散見されるので、通覧できるようにまとめてみました
*2。
文法の解説にあたって意図的に嘘をついている・こじつけているであろう部分はかなり多いですが、このへんは創作上の嘘ということで触れていません。ただ、意図的にやったのかうっかりしていただけなのか怪しい部分については少しだけ書いてあります。
えっそんな細かいこと言う!?というような点もあるかもしれませんが、とりあえずここ数年もやもやしていたところを書いたのですっきりした。
英語→日本語翻訳時の問題と思われるもの
誤訳
p.130 l.27
『~動詞zaradaの活用形の1つ(出格)である。』
これは明確に誤訳です。
アラビア語に出格はありません。
ここは英語だとelative(もしくはelative case)と書いてあったものと思われます。elativeは出格の意味もありますが、
アラビア語においては
強意形(比較級や最上級に使われる語形)です。さらに言えば動詞のzarada(زَرَدَ)ではなくその語根からの派生といったほうが正確な気もする。
ついでにアブド・アル=アズラッドが英語表記でしか載っていませんが
アラビア語表記はこれ→
عبد الأزرد
ブラウザ上の表示だと小さくて点とか見づらいと思うので使う場合は拡大してみてください。
アラビア語を転写した英語を転写した日本語の問題
p.132 l.4
『Al-Qahira(アル=クァヒラ)』とありますが、この単語はアル=カーヒラと書く方がまだ正しいです。英語でQと転写されるق(カーフ)は口蓋の奥のほうで発音するくぐもった「カ」のような音になります。IPA記号でいうところの[q]。しいて日本語で書くならば「カ」か「コ」のどちらかでないでしょうか。
「クァ」としたのは、翻訳者の方が、英語でQが使われる際はほとんど"qu"の組み合わせで[kw](クウァ、クァ)と発音するためにQの
音価を[kw]としてしまったからでないかと思います。実際には英語でも"Qatar"のようにつづる場合は「クァタール」ではなく普通に「
カタール」と発音します。「クァ」になるのは"qu"のつづりの時だけです。
p.252『イブン=グハジの粉』項
英語名は"POWDER OF IBN=GHAZI"ですが、これも最大限
アラビア語に近づけるならば「イブン=ガズィ」あたりが適当かと思われます。
なおGhaziがアラブの人名غازيだとするとガーズィー(アもイも長母音)のほうがより正確かと思われます。
"zi"を「ジ」にするか「ズィ」にするかは好みの問題もありますが、"gha"は「ガ」です。
アラビア語には"g"単体で転写される
アブジャド(アルファベット)はない
*3ので、"ghazi"を区切るならば"gha-zi"一択です。"g-ha-zi"という区切りにはなりません。
なお、マレウス=モンストロルム(6版5刷)では『イブン=ガジ』になっています。
原文の問題と思われるもの
誤植
p.133『黒い仔山羊』の囲み
一番
ひどいわかりやすいやつです。まず132ページ左下、クトーニアンの
アラビア語・
ギリシャ語表記の囲みを見てください。次に133ページ右上、黒い仔山羊の
アラビア語・
ギリシャ語表記の囲みを見ましょう。
なんでここ2つ全く同じなの??????
実はクトーニアンと黒い仔山羊は
アラビア語(
ギリシャ語)に直すと全く同じ単語だったんだよ!……ということもないです。
ラテン文字転写の部分はしっかり別の単語になっているし本文でもしっかり別の単語の解説をしているのをご覧いただけるかと思います。
ついでに、
ラテン語アラビア語併記の段落では
アラビア語が"ash-shubab al muthlimun"とされていますがそこから下の単語解説の部分では"ash-shabb al muthlim"か"ash-shabb al-muthlimun"しか出てきません。"ash-shubab
*4どこいった?
とりあえず黒い仔山羊の
アラビア語表記は"ash-shubab al-muthlimun"を採用するならば"
الشباب المظلمون"です。ご活用ください。
怪しいが確信がないのでとりあえずメモしておく
アラビア語は英語ほど自信がないので(英語もたいしてありませんが)自分の不勉強の結果間違っているように見えているだけなのか実際に不正確なのか確信のない部分が多いです。また不正確であったとしても何か意図があってそうしているのか単にうっかり誤っただけなのかよく分からないところもあります。とりあえずもし自分がシナリオに使用するならばこのあたりは直すだろうなーというものを挙げています。
p.132 l.26
アザトースの
アラビア語が"Izzu Tahuti
z"となっていますがこの最後の
zがどこから出てきたのか謎。本文にもzについての説明がありませんし
アラビア文字の表記を見ても最後のzにあたる文字はありません。おそらくなんか慣用的な書き方があってこうなってるパターンだろうとは思うんですが。
p.134 l.1
"al-Ghabati"とありますが、これはالغابةだと思います。この最後の文字、ة(ター・マルブータ)は"ti"と転写されているわけですが、ター・マルブータのtの音は他の部分だと転写しない方針*5のようなのでここだけうっかり落とし忘れたのか何か意図があるのかいまいち不明です。
ニャルラトホテプの語頭のヌーン(ن)の点がありません。基部も半分切れているように見えるので、おそらくすべての言語を左揃えで並べた際に右端(
アラビア語ではこちらが語頭)の点を汚れか何かと間違えて入れ忘れたのではないかと思います。
クトゥルフの囲みでも
アラビア語表記のバリエーションが2つあるのを左揃えで並べているので左揃えにしていること自体は確かでしょう。
ただ
アラビア語は文字のバリエーションとして点の打ち方が変化する場合があり
*6、語尾のヤーの点を落としたり、カーフの点を落としたりというのが色々あるので、私の知らない書き方として(語頭の)ヌーンの点を落とす書き方があるのかもしれません。実際に、
ネクロノミコンの
連句などは語尾のヤーの点を脱落させる書き方です。ただそういった表記であればヌーンの点はなくとも基部は全部きちんと書くと思うのですが、なんというか思いっきり途中で切れてますよ!!って感じに見えるので……保留。
アラビア語には
pの音がないので基本的に
bで代用します(
ペルシャ語のpを借用する場合などもある)。例えば「コン
ピューター」→「コン"
ビ"ューター」。ただ、近年の外来語だとbで表記しても元の語の通りpで発音する場合も。
Niyarlat hotepは相当古い言葉のはずなのでbで読んでいる可能性の方が高いと思います。
口頭で伝わって元の音がちゃんと残っている場合、表記としてはbでも実際の発音はpという可能性もあります。
ニャルラトホテプの名前がきっちり元の音が残るほど頻繁に口に出されることがあったのかなあという疑問があるので微妙なんですが……。
単にCoC世界ではp音で発音されていることにしたいという創作上の都合の可能性及び転写の問題の可能性もあるためこれもまた保留です。
普通に書くならنرلت هطبです(右から左へ読みます)。
その他
ネクロノミコン(キタブ・アル=アジフ)のアジフの意味
『オリジナルの
アラビア語のタイトルは『キタブ
*7・アル=アジフ』というものだった。意味は「砂漠の(後略)」、あるいはもっと詩的に言えば「近づく(後略)」ということになる。』
この文章の書き方だと、『キタブ・アル=アジフ』という一つの単語に砂漠の~と近づく~の2つの意味があるように読めるかと思うのですが、結論から言うと違います。ちょっと事情が複雑なので順を追って書きます。
このルールブックの転写法で
Azifと転写される可能性のある単語はいくつかあります。(時間などが)近づくという意味のأَزِفَの能動分詞
آزِفٌ、風が鳴ることを意味する動詞عَزَفَの
動名詞および
عَزِيف、能動分詞
عَازِفٌなどです。これらは大別するとأزف(近づく)とعزف(風が鳴る)のふたつの単語の系統に分かれます。砂漠のデーモンあるいは~の意味は後者の単語に含まれます
*8。個人的にこれじゃないか?と思う単語をピックアップしても前者の系統から1つ、後者からもう1つです。
つまり、砂漠の~という意味の単語も近づく~という単語も存在するのですが、これらは
別々の単語なのです。1つの単語が持つ意味の1つ目と2つ目ではないのです。
よって、厳密には
『キタブ・アル=アジフ』と表記することのできるアラビア語は(最低でも)2通りあり、片方は砂漠の~という意味、もう片方は近づく~という意味である。どちらであるかはこの日本語(英語)の転写からは判別できない。ということを書きたかったんじゃないかと思うのですが、そこまで説明する手間を端折ったのか、単にこの2つを混同したのかは不明です。私は六版英語版を持っていないので英語から日本語に翻訳されるときに問題が発生したという可能性も排除できず、とりあえず何故こうなったのかについては保留。
p.135 l.34-35
『「多柱の都市
アイレム」とも呼ばれていた。
アラビア語ではIram dhat al-imadである。』
とありますが、al-imad(العماد)は単数形なので直訳(本当に単なる直訳)すると柱(単数)を持った
アイレムという意味になります。元々
クルアーンに出てくる既存の固有名詞ですし単数形でもって集合を表したりのなんやかんやはあるのですが、al-imadと英語のpillars(柱・複数形)を完全なイコールで結ぶことはできないので一応。
転写の問題
このルールブックでは、神格その他の
ラテン語・
ギリシャ語・
アラビア語表記とそれを英語に転写したものが紹介されています。
ネクロノミコンの二行詩(p.131の一番上)なんかも音を英語で聞き取ったものが書いてあります。
が、これ、考えてみると当たり前なのですが、英語話者でないと正しい発音が分かりません。たとえば"th"という英語のつづりがありますが、これが
アラビア語を書きとった初見の単語の中に出てきたとして、[θ](thank youのth)で発音するか[ð](thisのth)で発音するかを判別できる人は英語がけっこう得意なのでないかと思います。私は無理です
*9。ということは多分他にも無理な人が相当数いるでしょう。他にも、多分これはゴリゴリの米語で発音すれば元の発音にわりと近くなるように転写されてるんだろうなあ……という部分がけっこうあります
*10。
このラテン文字転写の部分は(英語の範囲で)なるべく元の発音に近いものを知ってもらうべくついてるんじゃないかと思うのですが、さすがに英語圏の人向けのアルファベットの文字列をそのまま載せても非英語話者には分からんでしょう……。これがALA-LC方式とかであれば、英語があまり分からなくともネットで対応表を調べて元の発音を復元したりできなくはないと思うのですが。ここまで正確性を捨てて元の言語っぽい発音を追い求めた転写をするのであれば日本語でもそれに相当する読み方講座なりなんなりあったほうが親切でないかな~~と思います。時間がとれればそのうちやるかもしれない。
なお、転写される
アラビア語の側も、口頭で読み上げる時の発音です。語末の母音は落とす、ター・マルブータは発音しない
*11、など。
とにかく元の単語を推測するのがちょっと手間でした。ちょっとというか、日本人が学習するときに普通使ってるであろうメジャーな転写方式を覚えてると発狂しそうになって泣きを見ます。
他、alのあとのハイフンがあったりなかったりする基準がよくわからないだとか、
ネクロノミコン二行
連句のyajiで母音の落ちたハムザはそもそも表記する気すらないっぽいだとか気になる箇所は無数にあるんですが、とにかく日本語ユーザーにはあんまり親切でない転写です。
結び
なお上に書いたあれこれがゲームを遊ぶ上で問題になるかと言われると
完全にノーなので(万が一問題にされたとしてもこの世界ではこうなんです!!でOK)、趣味でリアリティを追求してみたいだとか、単純にルールブックの言語の解説が正しいのか気になるだとか、うっかり
アラビア語圏の人と卓を囲むことになった人向けに供する記事となります(いまさら)。
アラビア!ロマンがあって楽しい!砂漠の中の遺跡に行きたい!クトーニアンに会いたい!ネクロノミコンの原書読みたい!そんなシナリオでちょっとこの記事とルルブとを参考にして
アラビア語の書かれたハンドアウトとか出てくるとテンション爆上がりする人が(私とか)いるのは間違いないのでせっかく読んだからにはいつか活用してください。
そしてシナリオの公開を待ってます。
参照URL
ざっと日本語で検索した範囲ではまとめてる記事が見当たらなかった。普通の
エラッタを公開してる人はいるけど後述のクトーニアンと黒い仔山羊の箇所とか
アラビア語知らなくても分かる誤植は入ってなかった。何らかの理由で指摘しても意味がないので抜かしているかあるいはそもそも気づかれてないのかどっちなんだろう?
ラヴクラフトがgのところで区切るつもりで書いたのであればこの限りではないが、日本語翻訳にあたって訳語が割れているので本人からどちらという見解は出ていないのでないかと思う。ならば
アラビア語のつもりで書いたはずの語は
アラビア語に法って転写したほうがいいんじゃないかという個人的な結論